2005-06-07 第162回国会 参議院 経済産業委員会 第18号
御指摘のように、確かに水沢市は旧伊達藩に属する地域でございますが、例えば水沢市で生産される鉄器の製法、作り方が南部地域に由来している、まあ技術交流をやっていたということのようでございますが。あるいは、主要な原材料、砂鉄、銑鉄といったものを南部地域から昔調達していたとか、そういった地域との関連性があれば地域団体商標の登録が可能であるというふうに考えております。
御指摘のように、確かに水沢市は旧伊達藩に属する地域でございますが、例えば水沢市で生産される鉄器の製法、作り方が南部地域に由来している、まあ技術交流をやっていたということのようでございますが。あるいは、主要な原材料、砂鉄、銑鉄といったものを南部地域から昔調達していたとか、そういった地域との関連性があれば地域団体商標の登録が可能であるというふうに考えております。
これは、例えば伝統的工芸品産業の振興に関する法律、伝産法と言うんですかね、これ、で指定されております南部鉄器、これは岩手県の南部藩、盛岡市だけでなく、伊達藩の水沢市でも製造されているそうなんですね。これを地域団体商標とする場合、伊達藩の水沢市における製造事業者も対象とするのかどうか、お伺いしたいなと思います。
やはり出城については、これを例えば徳川家康が攻めるときに、御承知のように、伊達藩の侵入を防ごうという中立的な立場に置いておいて、そして大阪城を攻めます。これと同じように、私たちは、本丸を攻めるということをやるときには、やはりその敵に回るところを中立化していかなければなりません。
その踊りがすずめ踊りといいまして、そのすずめ踊りというのは、今から四百年前に仙台城ができたんです、伊達藩でございますが、その仙台城ができたときに、その竣工のお祝いで、そのお城をつくった石工の人たちがそのすずめ踊りを踊ったらしいんですね。
そしてまた、私の選挙区の三区は、県南部で宮城県に接しておりまして、古くは平泉を中心として平安の藤原文化が栄え、江戸時代は盛岡の南部藩と仙台の伊達藩に属し、質実剛健の気風がみなぎっております。 一方、自然災害に目を転じますと、岩手県も内陸、沿岸部とも地震の多いところでありまして、最近は地元の岩手山の火山活動も活発化しております。
伊達藩の当時は、武家屋敷の中に必ず樹木を植えることという義務化をしたようでございまして、その恩恵が今日でも生かされておるのじゃないかと思ったわけでありまして、我々もそのような点に思いをいたしながら森林保全に努めていかなければならないと思っておるところであります。 また、先生、武蔵野のすばらしい景観を残したいということであります。
先ほど環境庁長官は伊達藩のお話を出されました。杜の都として仙台に四百年前の行政がまさに生きている、松島を訪れたときのそういう印象でありますけれども、吉野川第十堰、これは江戸時代中期に建造されて現在に至るまで修復されながら使用されているそうした第十堰を、建設省が撤去をして、河口から十二キロ地点に千五十億円で可動堰を新築する計画があるというふうな話であります。
仙台の伊達藩とか会津藩の松平家とか、いろいろな江戸屋敷があったり大砲の練習場があったりとか、かなり貴重な江戸時代の遺構、遺跡がある。だから、その辺からもいろいろ地元では要望が出ているのですね。
私の町を含む迫川上流一帯は、奥羽山脈の秀峰であります栗駒山直下のすそ野で、一六〇〇年代に伊達藩が三本の迫川の上流部から用水路を開削し、それぞれの沿岸平地を潤して近世農村社会を構成させたもので、自来、良質米産地として農村の発展が図られてきた地域でございます。
これは伊達というのは伊達藩の士族たちが維新後あそこに移動して、そして開発したので伊達という名前がついている。あの伊達紋別には廃屋になった教会がありまして、その教会はバチェラーさん、それから小谷部全一郎さんの教会なんです。それは行ってみますと、まだ名刺だとか写真とか張ってありまして、そこの世話をしているのがアイヌに関係の深いおばあさんであります。
従って今顧みましても、主として国有林になっておりまするととろは東北に偏在いたしますが、これは秋田藩なりあるいは伊達藩なりあるいは庄内藩なりあるいは南部藩なりが、熊沢群山の影響を受けて林政に志いたしました結果、今日の蓄積を持っておると思うのです。従って、これらはわれわれの先祖の大きな努力によるものでありまして、この努力に感謝する気持がなければ、今後の林政は進められないんじゃないかと思うのです。
宮城県の黒川郡と加美郡にまたがる王城寺ケ原、これは伊達藩時代から演習地として使ったのですが、その土地の処分に関して、防衛庁と農林省が長い間交渉して、ある程度まとまりかけておったが、何かの雑音が入ったかどうか、昨年の暮れあたりから交渉が中絶をして、そのままになって、せっかくのいい土地をことしは農耕地として利用ができない、そういう状況になっておるので、地元の農民を初め、市町村長なども非常に心配をしている
戰災で完全に灰燼に帰したのですが、伊達藩の伝統と教育都市仙台の熱誠によつて、現在由緒ある旧養賢堂跡に木造二階建の立派なものが出来上つて、活発なる活動を続けておりましたのには深く感銘いたしました。さすがに戰前より全国有数の一つに数えられておりましただけに、その面目躍如たるものがありました。 また予算不足によつて優秀なる図書館人をつかめないことも見逃すことが出来ません。
無論、仙台における大崎八幡、伊達藩時代の大崎八幡のごときもこれは爆破されまして、そこの屋根が破れたために、更に屋根を突き拔けて疊まで燒かれておるというので、現在非常にこの修理問題で地元では騒いでおるのでありますが、それにも増して平泉の問題が國宝保存の立場から大きな問題になるだろうと思うのであります。